宮沢賢治とトシとアインシュタイン。二十二箇月の過去とかんずる方角。 / いがわ

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Memo

宮沢賢治とアインシュタインの知られざる因果関係。春と修羅と光。

敬称略

宮沢賢治の詩集、『春と修羅』。

宮沢賢治の、生前唯一の出版物。

学校では習わない、『春と修羅』。

宮沢賢治と言えば、「雨ニモマケズ」や「オツベルと象」、「やまなし」などが義務教育の教科書でよく知られている。

それらは小学生や中学生でもわかるような言葉や、模範的内容による詩や童話のため、教材として使用されやすいと思われる。

テレビアニメでの、ドラえもんやちびまる子ちゃんのように、自然とそこにある感じ。

生前唯一の発表は、『春と修羅』。

ただし、宮沢賢治自身が発表したのは、1924年に刊行された、宮沢賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』だけ。

その「序」は、意味深い内容となっている。


『春と修羅』序の、二十二箇月の過去とかんずる方角。

春と修羅の「序」。

宮沢賢治の心象スケッチ。

詩集『春と修羅』には「序」として、下記の「心象スケッチ」がある。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論量(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

この「序」が書かれたのは、大正十三年一月廿日(1924年1月20日)のこと。

詩の内容とともに、この日付が鍵となっている。


アインシュタインとニュートンの光。1905年と1665年。

光量子仮説と、ブラウン運動、相対性理論が発表された1905年。

相対性理論ではなく、光量子仮説、光電効果で受賞。
アインシュタインの奇跡の年、1905年。

アルベルト・アインシュタインは若いころ、当時就業していた特許局の勤務時間を利用し、思考実験をしたりしていたらしい。

そして1905年に、「光量子仮説」と、「ブラウン運動」、「特殊相対性理論」の論文を立て続けに発表している。

万有引力の法則と、微分積分、光学が発見、発案された1665年。

万有引力の法則だけじゃなく、微分積分や光についても。
ニュートンの驚異の年、1665年。

アイザック・ニュートンにも似たような年がある。そしてアインシュタイン同様、「光」にも多くの研究がされている。

「万有引力の法則」を発見した1665年は、何度か目のペストの大流行があった。

ニュートンは卒業後もケンブリッジ大学に残っていたが、ペストにより大学が閉鎖されたため、一時的に故郷へ戻っている。

そこで「万有引力」や、「微分積分」、「光学」の発見、発案をしている。

万有引力はもちろん、プリズムによって光の研究を行い、虹の色を七色だと考えていた。

そのため、ニュートンにとっての1665年は、「驚異の年」や「創造的休暇」などと呼ばれている。

宮沢賢治とアインシュタインの知られざる因果関係。春と修羅と光。


宮沢トシとアインシュタインの時空。

1922年11月27日の宮沢トシ。

二十二箇月の過去とかんずる方角。

宮沢賢治の「心象スケッチ」は、大正十三年一月廿日に書かれている。

西暦に直すと、1924年1月20日となる。

その22ヶ月前の過去と感ずる方角には、ちょうど妹のトシがいる。

1921年10月〜12月のアインシュタイン。

アインシュタインとトシの第四次延長。

アインシュタインのノーベル賞受賞の発表と授賞式は、1921年の10月〜12月10日ころ。

春と修羅の序には、「ひかり(光子)」や、「電燈(光電効果)」、「宇宙塵(宇宙の塵)」、「論量(データ)」や「時空的制約(相対性理論)」、「第四次延長(時間や空間のさらなる延長)」などといった、アインシュタインに関連する言葉が自然に織り込まれている。

心象や時間それ自身の性質として第四次延長をしていくと、宮沢トシの1年向こうに、アルベルト・アインシュタインがいる。


アインシュタインの来日と、妹トシの旅立ち。

アインシュタインはノーベル物理学賞受賞の翌年の1922年11月17日〜12月29日に来日しており、宮沢賢治が住む岩手県の花巻の近く、宮城県の仙台でも講演を行ったそうだが、同時期の1922年11月27日に妹の宮沢トシが病気で亡くなっていることもあり、接点はなかったと思われる。

そして、宮沢賢治は汽車に乗って、北の方向へ向かい、心象スケッチを書いている。

宮沢賢治とアインシュタインの知られざる因果関係。春と修羅と光。

以上、参考になれば幸いです。


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井川 宜久 / Norihisa Igawa
デザイナー、ディレクター、講師、コーチ / 井川宜久

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