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映画の批評ではなくある種のメタファー。
※敬称略
ドライブ・マイ・カーとCODA。
言語の掛け合わせ。
この記事は、映画「ドライブ・マイ・カー」と「CODA」と、Web業界を含む、教育・指導の現場でのパクり行為をなんとなく掛け合わせている。
ドライブ・マイ・カーとCODAには「手話」という言語が登場し、インターネットのサイトは「HTML」という言語でできており、その「HTML」を書くソフトに「Coda」がある。(現在はNova。)
あくまでもSocrates(ソクラテス)と姉弟関係であったPlato(プラトン)による「アカデメイア – アカデミー」的な主題、問題の一例である。
指導者と被指導者間でのオマージュとパクり。
また、パクりについては映画のことではなく、指導者と被指導者での例である。
学ぶは真似るというように、真似をするのは良いが、パクるという行為は別だ。
プラトンのイデアの概念はソクラテスからのパクりではいない。
ドライブ・マイ・カーと、コーディングソフトのCoda。
教育機関で、教える側は、教えた人たちを覚えているか?
例えば自動車教習所。
自動車教習所の教官(教習指導員)は、運転方法を教えた全ての人たちを覚えているというわけではない。
この問いへの答えは概ね同じだろう。
Webデザインの講師や、塾の講師。幼・少・中の先生でも、高校や大学の先生でもでも、みな同じだろう。
人間は数が多いと覚えきれない。
人間なので、数が多いと忘れ、年月が遠のくとやはり忘れる。
そして忘れたころに、パクられている、ということがあるのだ。
そういうタイプの人物は大体早い段階からわかるのだが、立場上、あえて自分のレベルを下げて(目線を落として)教えなければいけない、自分を抑えて奮い立たせなければならない、ということがある。
そこを踏みつけて、パクってくるのだ。
良い関係の場合は…
映画「CODA」の場合の、V先生とルビーのように。
- 現実的にはバークリーのレベルかどうかはわからないが、ルビーの歌は下手ではなく、なによりMr.V(V先生)ことBernardo Villalobos(ベルナルド・ヴィラロボス)先生のキャラクターは知性と情熱による指導力、自分自身を客観視するセンスがありとても良かった。
- V先生は呼吸や瞑想、母校を大切にし、音楽の先生であることに準備と誇りを欠かさない。生徒へ対して否定から入らず、個々の適性を見極める。一見カッコつけで偉そうかと思いきやメキシコ出身の苦労人のようで、何より抜群にユーモアがある。そのためルビー以外からの信頼も得ており、保護者への配慮も忘れずと、とにかく気持ちがいい。
- 恥ずかしくて声が出せないルビーの心を察して半ば強引に呼吸法を真似させて結果的に歌えるようにしている。口だけではなく行動で示している。本番で緊張して声が出ないときも、自分が伴奏しているピアノをわざと間違えて、最初から歌えるようにしてあげてもいる。
- オリジナルのフランス映画「La Famille Bélier(べリエ家、牡羊座の家族)」は子ども(CODA)よりも、家族(Famille)自体がタイトルとなっている。こちらではトマソン先生とポーラが師弟関係となる。V先生同様喧嘩もするが指南・師事に優しさがある。
映画「ドライブ・マイ・カー」の、ユンスさんとユナさんのように。
- 素敵な出会い、手話で話すユナさんと話をするためにユンスさんは手話を覚え、その後とても素敵な夫婦となっている。手話を覚える際に真似る、という行為もあっただろう。
- 演劇でのラストシーンも主役の家福を抱き込むユナさんの手話のセリフでフェイドアウトする。それを家福のドライバーをしているみさきは、しっかりと真正面から観ている。
- 映画自体のラストシーンも、ユナさんが飼っていた愛犬と似た犬もしくは同じ犬を、韓国でみさきが車に乗せての長い直線を、ドライブ・マイ・カーで終わる。
などと、癒しや再生、光を与えてくれる。
(ただし、こういった良い関係はあるまでも映画の中での存在であり、現実的にはまず出会えない。自分自身の経験を振り返るとわかるだろう。)
BeatlesのDrive My Carの歌詞と関連があるのであれば、みさきは俳優になるためにユンスさんとユナさんの地元韓国に行ったという解釈もできる。
(食事の際にユナさんとみさきは辛いのは大丈夫とサムズアップで意思疎通している。)
BeatlesのDrive My Car(ドライブ・マイ・カー)。
Drive My Carの歌詞から。
BeatlesのDrive My Carの歌詞は、Paul McCartney(ポール・マッカートニー)によって書かれ…
Asked a girl what she wanted to be
She said, “Baby, can’t you see?
I wanna be famous, a star of the screen”
But you can do something in betweenBaby, you can drive my car
Yes, I’m gonna be a star
Baby, you can drive my car
And maybe I’ll love you
Credit:Lennon-McCartney
と力強く歌われている。
この歌詞の中で、少女に対して、「何になりたいの?」と聞き、少女は、「有名になって、スクリーンの中でスターになりたい」と答えられている。
また、「私(おれ)の車を運転しなよ」とも言っている。
みさきがユンスさんとユナさんのいる韓国で、家福のサーブを運転していても辻褄が合う。
こういうのはBeatlesのDrive My Carをパクっているのではなく、オマージュしていると言う。
そうでない場合は…
映画「ドライブ・マイ・カー」の、音と高槻の歪んだ関係のように。
- 個人的にはドライブ・マイ・カーは作家村上春樹を映画で表現する限りでは素晴らしいと感じ、セリフのニュートラルでスローなリズム感の徹底や、映像に関するテクニックも同様に素晴らしいと思ったが、ストーリーとしてはユンスさんとユナさん、登場直後から存在感を醸し出していたみさきが現れなかったら、途中で見るのをやめていただろう。
- 実際みさきが出てこなかったら最後まで見なかった、という人はいるようだ。予備知識がない状態で観た場合やハリウッド慣れしている場合は特に。ちなみにみさきの出身地は架空の村であり、北海道の景色は出ていたが、札幌の近辺ではない。中学生の運転での毎日通勤はまず不可能な距離であり、あの地域であの知性が育つのもまず不可能だが、物語的には重要度が非常に高い。
と、とにかくみさきが、闇を照らしてくれる。
(ただし、やはりこういった良いドライバーもあくまでも映画の中での存在であり、現実的にはまず出会えない。こちらも自分自身の経験を振り返るとわかるだろう。
反面、音や高槻のような歪んだ関係、泥沼の関係というのは何故か身の回りにもおり、知性や創造の有無を抜かせば、わざわざパクるまでもなく、社会的にもしょっちゅうニュースになっている。
シンガーソングライターでラブ&セフトのBod Dylan(ボブ・ディラン)がノーベル文学賞を受賞しているのにも関わらず、村上春樹が獲得できないことと関係があるのかどうかはわからない。)
ドライブ・マイ・カーやCODAの登場人物。
恵まれた才能と、他者に危害を与える人物は忘れない。
ドライブ・マイ・カーやCODAの登場人物がそうであったように、恵まれた才能と、他者に危害を与える人物は忘れない。
社会的動物としての人間。
集団ができれば、必ずと言っても良いほど、才能のある人物と危害を与える人物が現れる。
このタイプはまず忘れない。指導者として生徒を受け持った経験を持っていれば誰でもわかるだろう。
いわゆる、良い子悪い子普通の子、に分かれるのだ。
恵まれた才能はもちろん、他者に危害を与える人間は、全体をも乱すので結果、組織的にマークをする。
恵まれた才能は本人の意思と環境から生まれ、危害を与える行為も本人の意思と環境から生まれる。
この環境面については、映画のようにはいかない。田舎からは全国区の知性や音楽、手話という言語は極めて生まれづらい。
ただし、環境が悪かったからといって、自分の意思で人に危害を与えることを抑制できなければ、危険視、問題視される。
この点においては教育機関だけでなく、警察も同様だ。
警察だけではない。
むしろ警察のように、近づける人物、組織ではない。
たとえマイナンバーが普及しなくても、一般世間的に「悪いこと」をした人物は昔から特定できる。
世間には公開されていないが、特定できる体制は何年、何十年も前から存在する。
だから、何年、何十年も前からマークされている。
たから、ほとんどの犯人は虎に捕まるのだ。
パーセンテージが少ないが、捕まらない犯人も何年、何十年も前から存在する。
だから、何年、何十年も後までマークされている。
だから、それらの犯人は表に出られないのだ。
映画や演劇、音楽と同様に、スポーツも繋がりが多い。
映画のドライブ・マイ・カーと、音楽のドライブ・マイ・カー。
映画のCODAと、コーディングソフトのCoda.
ドライブ・マイ・カーやCODAと同様に、スポーツ高では上下や同級生のつながりが多く、ガタイが良いだけでなく、強い。
強豪校であれば、角度の高い縦社会となるが、パクりは当然フルボッコとなり、常識とリスペクトがあればむしろ力になってくれる。
一度味方になってくれれば、失礼や無礼、裏切り行為をしない限り、人生が終わるまで変わらない。
反面、パクって知らない顔をしている人間は一生許されない。
無礼な行為、知的財産、知的所有権を侵害して知らない顔をしている人間は、一生許されない。
古代の時代から、反省しない盗人には懲罰・厳罰が与えられたように。
盗みを繰り返す盗人は、社会復帰が難しいように。
パクりを繰り返す者も、当然、社会復帰が難しくなる。
人からパクることに、罪悪感を感じない。
自分を誤った解釈のスターマンだと勘違いしているようにも見える。
だが井の中の蛙大海を知らず。David Bowie(デヴィッド・ボウイ)をも知らない。
世界的な著名度が非常に高い、Beatles(ビートルズ)でも村上春樹でもそうだ。
彼らを知っていると言う者ほど、ほとんど何も知らない。
ということがあるのだ。
知らなかったのなら、今、知っただろう。
無知の知への入口だ。
そしてそれすらもリスペクトでもオマージュでもなく、ただただパクるのだろう。
そのダサさが半端ない。
その極端に太った腹の、自分よりも弱い者へのドメスティックな暴力性は周囲から知られている。
これらは多くの中のほんの一部だとわかっているだろうか。
法治国家において、知りませんでしたではすまされない。
その肥した腑は、虎に取っては良い食事となるだろう。
そして虎は、Beep-beep, beep-beep,などと注意はしない。
※Webデザインは実務数年、職業訓練校講師数年、フリーランス数年、計15年以上のキャリアがありますが、一気にがぁっと書いているので「です・ます調」ではありません。(元々はメモ書きでした。) ※事実や経験、調査や検証を基にしていますが、万一なにかしら不備・不足などがありましたらすみません。お知らせいただければ訂正いたします。 ※写真は主にUnsplashやPixabayのフリー素材を利用させていただいております。その他の写真や動画もフリー素材やパブリックドメイン、もしくは自前のものを使用しております。